【アート講座】の記事

狂言のことだまⅡ(1/18)

投稿日:2020年1月22日

私が小学生の時に講堂で和泉流の「ぶす」を見たのが狂言との最初の出会いで、爾来何度となく狂言を鑑賞する機会が増え、このところ国立能楽堂の「狂言の会」で山本東次郎先生の舞台を拝見することも多く、本日の先生の講話を大変楽しみにしていた。

講演が始まった。狂言の語源について話をされ、古代中国の「狂夫の言」という言葉、また仏教の世界での小説、歌舞、音曲の類は悪という考え方を踏まえ 白居易はそれを「狂言綺語」と表しそこに語源があるようだと示された。狂言は人間の愚かしさに焦点を当て、人間とは何かを考えさせるもので、2つの約束事の上に立っており、一つは人間の愚かしさを特定の事象・事件にあてはめず,誰にでも生じるものである事象に絞ること、二つは人間の愚かさを糾明することなくその愚かさを理解することを笑いにくるんで描いていること、と極めて分かりやすく説明いただいた。

能と狂言の境界線についても説明された。能狂言はもともと申楽という一つのものであったが、足利氏が自らの文化を作るため、観阿弥・世阿弥により申楽のうち都会的で雅な歌・舞を能となし、申楽の面白いせりふと仕草が狂言となった。喜怒哀楽で言えば能は怒・哀、狂言は喜・楽を示すとのこと。

また舞台の成立ちや舞台中央の老松の絵は春日大社の影向の松を描き鏡板ともいうといった解説もいただいた。

最後に狂言の演目の話にはいり「末広がり」「佐渡狐」「花盗人」の3題についてあらすじを教えていただき、「末広がり」では華麗な演技もされた。そして、狂言とことだまに触れられ、「切り詰められた仕草」「身体のなかで選びに選び抜かれた的確な言葉(点)に込められる意義」を観る人が心のままに見出す何かがあるはずだ、演者も自分の個性を否定し自分を殺し、見てくれる人を尊びながら演じている、と締めくくられた。

先生の講義はとても具体的かつエネルギッシュで狂言とは何かをよく理解できた。またとても丁寧な対応でさすがに超一流の芸術家であると強く感じた。これからも日本の伝統芸能のリーダーとしてご活躍ください。ありがとうございました。

(記録文:アメリカン、写真:    )